すぎのこ通信Vol.2 3つの源流

文章の源流

 

 生まれ育ったのは僻地のような貧しい農村。

ひい爺様から一族代々同じ学校に通っており、その学校では毎週2冊の本を借りて読むということになっていました。

本なんて好きなタイミングで読ませてやりゃあいいんですが、まあ教育現場というのはひとつひとつ分解していくと杜撰なのでそんなもんでしょう。

図書室で週に2冊借りて読むというのが6歳の頃から15歳ほどまで続いた僕の習慣でした。

月に8~10冊程度ですので、一年で100冊近くを呼んでいる計算になり、9年ほどで1000冊くらいの本を呼んでいますから、ぶっちゃけ今よりもずっと読書家であったように思います。

図書室には漫画もありますが、ああしたものは人気ですぐになくなりますから、僕はといえばぎりぎり低学年が読めそうな本を漁っていました。

おにぎりマンだとか怖い話、かいけつゾロリだとかそういったシリーズものの児童書を中心に借りていましたが、残念ながらすぐに全シリーズ読み切ってしまいました。

他の子のように借りて読まないということに対して”もったいない”という貧乏性を拗らせた僕は借りた本を読破しつづけ、やがてファーブル昆虫記を始めとしてシートン動物記や生物系・科学系などの理科系の本を読み始めます。

 

僕の文章には3つの源流があるのですが、そのうちの一つがこの「好奇心を満たす為の理科」です。科学雑誌もそうですし、最近ではドクターストーンなんかもそういった側面があるように、昔からそれなりに人気をつかんでいるジャンルです。

僕の拙作「異世界サバイバー」でもこの源流が存分にいかされています。

 

ここで得た知識は今でも僕を形作っていますので、本は自分を作る、というありふれた言葉を読書する側として体感しています。

 

3年生のあたりから自分の知識量が他の子達にくらべて多くなってきたのを感じ、ならば難しい本を読めるだろうということで古めかしい本に手を出します。

図書室でも一番古い本を探そうと試みて、全て調べたわけではないですがとりあえず相当古いであろう昭和47年に図書室に入ってきた本を見つけました。

それが昭和46年発行の「ハブとたたかう島」という本でして、当時は最新の本で発刊から1年で図書室に入ってきたんだと絵日記だか作文だかに自慢気に書いたのを覚えています。

昭和中期の奄美大島を舞台とした話で、小学生向けにしてはかなり際どい内容でして、まあ平成中期の頃には本の内容と現実とはすっかり変わっていたのでしょうが、小さな子ゆえにそこまで考えは至らず、僕の中の奄美大島のイメージは相当ひどかったように思います。

ですがここから読む本のジャンルは一気に低学年向けから高学年向けへと走り、図書委員会を小学4年生から中学3年生までの6年間つとめる一因となったのです。







そんな中で、僕はファンタジー小説と出会ってしまったのです。

これが二つ目の源流「冒険心を湧きたたせるファンタジア」です。

 

厨二病と揶揄されてはや数年、その影響は文章のみならずSNSでのつぶやきや実況プレイ動画にも顕れているわけですが、これは感受性の高い”黄金期”と呼ばれる13〜16歳の頃に、ゲームやファンタジー小説を読み漁っていた結果なんです。

この頃にSFに傾倒していた子はSFに引っ張られ続けるし、エヴァを見ていたオタクはエヴァを追いかけ続けるし、ファンタジー小説を読み続けたものはそうなってしまいます。

僕はこの時期に物流という原因からラノベというものを殆ど手に入れることが出来ませんでしたので、実はラノベが源流にはなく、より児童書に近い「ジュブナイル小説」に影響を受けているんです。

これは拙作の24時間RPGにも現れているのですが、2000年代のラノベやそれに影響を受けた系譜にある小説家になろうに代表されるようなハイファンタジーよりも、児童書にあるような少年少女が艱難辛苦を超える冒険ファンタジーに近い作りをしています。

 

アジアンファンタジーの巨匠である上橋菜穂子の「精霊の守り人シリーズ」「獣の奏者」は6年を通して読みましたし、リック・リオーダンの「パーシージャクソン」のギリシャ神話というメガジャンル、栗本薫の読み切れない未完の超大作「グイン・サーガ」(10分の1も読めていない)に、フィリップ・プルマンの「ライラの冒険」、三大ファンタジーアーシュラ・K・ル=グウィンの「ゲド戦記」もそうですし、同じく三大ファンタジーであり、あらゆるRPGゲームの源流ともいえるJ・R・R・トールキンの「指輪物語」などにも影響を受けています。(残る三大ファンタジーナルニア国物語は映画はいいんすけど原作がちょっとアレで1巻で折れました)

 

とりわけオーストラリアの作家に影響を受けており

「古王国記」や「セブンス・タワー」のガース・ニクス

「リンの谷のローワン」や「デルトラ・クエスト」のエミリー・ロッダ

SFですがグレッグ・イーガンの諸作品

これらは未だに面白い本はといわれた時に頭に浮かんでいるほどです。

 

「強大な強さを得てバトル」というよりも、「特別な力を持ったアイテムと力の無い少年少女という構造」がラノベとの大きな差なんでしょうね。

24時間RPGー泉の少女と朽ちた巨人ーでは少しちがいますが、僕が書いたTRPGのシナリオをプレイした方は確かにアーティファクトめっちゃ出てくるな~と繋がるんじゃないですかね。

「冒険心を湧きたたせるファンタジア」が源流とするならば、「特別な力を持ったアイテムと力の無い少年少女という構造」は表に出ているという意味で本流ですね。

大抵の作品がこうした構造になっていますし、実況プレイ動画の縛りプレイやマイナーを使いがちなプレイングも、こうした弱いものが何か強大なものへ挑むという構造へ柄がる部分があるんじゃないでしょうかね。










三つ目の源流は、「新本格ミステリ(綾辻行人)」です。

 

当時はある程度の読書家であった僕が、初めて本を読んでいて具合が悪くなりページを閉じたものがあります。

高校で出会った友人(サイコおばさん)が貸してくれたもので、それが新本格ミステリの発起人「綾辻行人」の「殺人鬼」であり、その殺害シーンなのです。

あの共感性に乏しい僕がですよ、お腹の部分がむかむかし、吐き気すら覚えてしまったんです。一方でただの文字が現実へ影響を及ぼすまでになるのか、と武者震いした自分がいました。

それまでは完結(ゲームでいうクリア)の感動こそが最も強く感情を揺らすと思っていたのですが、そんな考えは瓦解し、今に至るまでこの作家の書く文章の力に傾倒してしまうのです。

一番好きな作品は「フリークス」なのですが、それはそれとして綾辻行人と言えば新本格ミステリ。

この作家を追った結果として新本格ミステリというジャンルの本をよく読むようになりまして、また去年は「新本格ミステリを識るための100冊 令和のためのミステリブックガイド」という本まで買ってしまい、またそのうちの2割弱を読んだことがあってにやけたりもしました。

実はこれも厨ニっぽさに拍車をかけていて、わかりにくいツイートをしたりといった、ミステリがもつ『大人気なさ』のエッセンスがぶちまけられているのです。

 

「好奇心を満たす為の理科」

「冒険心を湧きたたせるファンタジア」

新本格ミステリ(綾辻行人)」

以上の3つの源流が交わり、僕の文章は出来上がっているのでした。

好きと言ってくれる方がいるのは嬉しいのですが、自分でもちょっと雑多だなーと思います。

これら全てが生きるTRPGのシナリオが一番書いていて気持ちがいいんですよね、まああれって共感性がないとなんか淋しいものになるのでウケはそこまでなんですが。

 

大ジャンルとして源流を3つに絞りましたが、個々として影響を受けた作家はまた違いまして、寺山修司那須きのこなどが「本流」にあたります。

根本的な部分は源流が支えているとして、現在表に出ている部分が「本流です」。

寺山修司に関しては青森県民に刺さりすぎるのですが、アングラが好きな方はいまでもぶっささります。

僕はツイートで引用しまくっていますし、秋田ひろむも引用しまくっています

おすすめはできません、書を捨てて街へでてしまうので。

那須きのこは言わずもがなのナスバース。

正確にいうと僕は「空の境界」から入ったのですが、ラノベっぽいものを期待していた僕をいい意味で裏切るひどく読みにくく、それでいて没入してしまう世界感がたまりませんでした。

「本流」についての話は、またいずれどこかで。